〜ダイオキシン報道でゼロからのスタート〜 悪戦苦闘記・・・社員の意識改革をいかに実現させたか・・・
昨年12月16日に定例の弊社お客様向け勉強会を開催しました。
講師に、埼玉県三芳町の産業廃棄物中間処理会社 株式会社石坂産業の石坂典子社長に登壇頂きました。1999年2月1日の所沢のダイキシン汚染報道で、地域からの風評被害を受け石坂産業は絶体絶命のピンチに陥りました。この難局にもかわらず創業の父親から長女である石坂典子さんが2002年30歳の時に社長を引き継ぐことになったのです。今でこそ、多くのマスコミに注目される会社となりましたが、社員と共に成しえた会社変革物語をお話頂きました。当日の講演レポートです。
石坂産業株式会社 代表取締役社長 石坂 典子氏
■ 講 演
私は父の会社「石坂産業」に1992年20歳のときに事務員として入社しました。最初は腰掛けの軽い気持ちで入ったのですが、産廃業というところが特殊な業界なんだということにすぐに気付きました。毎日300~400台のダンプカーが廃棄物を運んでくるんです。私が電話応対に出ますと大抵同じことを言われます。「こういう廃棄物が出るのだけど、幾らで引き取ってくれる?」当然、料金表をみながら、「料金はこれくらいの値段です」と答えると「高いなー、もっと安いところいっぱいあるよ」「○○の方が安いからそっちに持っていくからいいよ」そう言って電話を切られてしまう。そんな電話がほとんどでした。私たちの業界はダンピング合戦で価格競争しなければいけないというのが現実でした。
それと入社してもう一つ気付いたことは、女性に厳しい業界だということ。私たちの会社に持ち込まれる廃棄物は、ビルを壊したときに出る廃材や住宅の廃材など、建設系の廃棄物が多く産廃業者は建設会社の下請けのような立場なんです。私が電話に出ると「もっと話のわかる男の人に変わってよ」と決まって言われました。とにかく女はダメだと言うのです。
そんなことで父の手伝いをしながら早くに結婚しましたが、ちょうど二人目の子供がお腹にいて生まれるわずか一か月前に大事件が起きました。1999年2月1日、所沢のダイオキシン汚染がTV報道されました。ダイオキシンによって所沢の葉物野菜にたくさんの有害なものが含まれているという報道でした。私はそろそろ父の会社を辞めて子育てをしながら自分のやりたかった仕事をしていこうかなと思っていたタイミングでした。農家の方が報道側を訴えて裁判をし、最終的に2年後に和解します。テレビ局側も誤報であったことを認めました。ところが最初の報道から2年が経っており、その間に所沢の野菜は売れなくなりました。JAさんが行政を訴えていく中で、なぜ自分たちがこんな辛い思いをするんだと、そもそもダイオキシンを出したのは何処なんだ、そこが悪いんじゃないか、と矛先が変わってきました。そして2001年6月石坂産業の産業廃棄物処分業許可の取り消しを求める裁判が起こされたのです。
私たちの会社の周辺には大小60本もの煙突が立っていて、産廃銀座って言われていました。私の父が建てていた焼却炉は大きな煙突が3本あり、報道される1年前にダイオキシン恒久対策炉というのを15億円かけて整備していたんです。ダイオキシン報道後、たくさんの取材ヘリコプターが空中から写真を撮っていました。どうしても石坂産業の煙突が一番大きく真新しいということもあり、集中砲火を浴びました。15億円も投資してダイオキシン恒久対策炉を作ったということは、まだこれからも石坂産業は焼却を続ける気なんだろう、この会社だけは許せない、という批判が集中しました。近隣の会社は廃業するところが増えてきて、気付いたら大小60本の煙突が全てなくなりました。そのぐらい大きな社会問題だったんです。父は石坂産業が永続企業になることを望んでいました。そこで私はこの会社の将来を考え今までの恩を返したいという強い気持ちから「社長をやらせて欲しい」と父に頼みました。当然反対されましたが、最終的に父から2002年「お試し社長」として承諾を得たんです。
私は石坂産業を永続企業にするためにやりたいことがありました。まず、今反対されているこの地域から逆に愛されるような会社にしたいと考えました。私たちの仕事というのは、地域密着なんです。そのためには同業他社にはない圧倒的な差別化を図らなければなりません。
私が最初にやりたかったことは、全てのものを建物の中に入れて、廃棄物を外に見せない、外に埃を出さない、全天候型のプラントにすることでした。都市計画51条という厳しい審査を通り全天候型の許可を頂きましたが、多額の投資になりました。その後、自分たちのやっていることをきちんと知ってもらいたいという思いから、工場見学コースも作りました。
次にやらなければいけないと思ったことは社員の人材育成です。新しく整備したプラントを100%有効に活用しなければ、この多額の投資は回収できません。この設備をフル活用してくれるように社員さんを育成しなければいけないと思ったのです。
そんな折、政府が環境元年というものを打ち出し、リサイクル六法を制定します。私は朝礼で、私たちは変わらなければいけない。目に見える形で国際規格ISOを取って会社を変えようと、社員の皆さんにお願いしました。なんとその朝礼で、納得できない何人かの社員さんはその場でヘルメットを投げつけて帰ってしまい、翌日から彼らは会社に来ませんでした。スタートは、まさに大変厳しく辛い状況でした。
ISOの勉強会を働いたあと夕方から行うことを地道に続けていくのですが、1年で社員の4割の人が会社を辞めました。そこで私は新しい人材の採用を始めたのです。とにかく自分のやりたいことを理解してくれる社員さんに入ってもらいたいと、そういうお願いをしながら面接するんです。結果、それに共感してくれた社員さんが新しく採用できました。何もできなくてもいい、重機も乗れなくてもいい、全部うちで資格を取らせるから。そう言って、私の思いに共感してくれた人に入社してもらったんです。そして、平均年齢が35歳まで下がりました。決していいやり方とは思いません。でも思い切って地域の人からの会社の見え方を変えようと思った時に、荒療治をせざるを得ない状況でした。
会社を変えようとして、私が最も重要だと思ったことがあります。皆さんの会社では社員さん同士で挨拶はしっかりできていますか。私たちの会社は当時ほとんど挨拶ができない会社でした。自分たちの襟を正さなければ地域の人たちからの見方も変わらないと思いました。
そこから13年間、毎日欠かさず挨拶の練習をしています。最初はやらされている感満載の挨拶ですね。それが今は変わりました。今は年間約1万人の工場見学のお客様が来られているんですが、皆さんに仰っていただけるのは「社員の質が違う」「社員の挨拶がすばらしい」「どうしてあんなに楽しそうな挨拶ができるんですか」という言葉です。そんな嬉しい言葉をかけられるまで会社が変わりました。
そしてもう一つやったことは、3Sの整理・整頓・清掃です。産廃業者が汚いのは当然だと皆さんに思われがちですが、いくら扱う廃棄物が汚くても環境全てが汚くていいと言うわけではないのです。当時は自分たちの休憩所さえきれいにできない会社でした。休憩所にはタバコの吸い殻、まんが本なんかが散らかっていて、いつ火事になってもおかしくないような状況でした。管理上6か所あった休憩所を1ヶ所だけにしました。休憩所の没収です。私の目の届くところの休憩所1ヶ所だけにして管理しやすいようにしたんです。私は、整理・整頓・清掃を徹底するまで続けますよと言って、毎日朝・昼・晩に巡回をしました。巡回で放置されているバール・ハンマー・スコップなどの道具も没収しました。みんな使ったら置きっぱなしにするのです。安全管理上もよくありません。道具を没収して「これは全て会社の財産だから大切に使って欲しい。大切に使えないような仕事はして欲しくない。自分たちの仕事にプライドがあるのであれば、決められた場所に置き道具を大切にして欲しい」そう言って彼ら自身に整頓をさせました。それをずっと繰り返しました。
これをやって思ったのは、思い切った会社の改革をするときはトップが動かなければいけないということですね。だから改革というのは社長の仕事です。改善は社員さんの仕事です。だから私は自分が動かなければダメだと思い自ら行動を起こしました。
今でこそマスコミに取りあげて頂いたり、多くの経営者の方が見学に来て下さっています。会社を変えようと私が思いやったことと言えば、挨拶やら整理・整頓といったどこの会社でもやっている当たり前のことだったと思います。ただ、この当たり前のことをどこの会社のレベルより徹底することにだけこだわりました。
途中で去っていった古参社員もいますが、今はまだまだ改善の余地はあります。徐々に社員さんたち自ら「ここをこうしたらどうか?」というような改善提案を提出してくれるようになってきました。女性の私でも諦めずやり続けることで実現できることを学びました。
今日は過去のお話をだらだらとさせて頂きました。頭で聞いて頂くよりは心で何か感じ取ってもらえればと思い、お話をさせて頂きました。心で感じてもらった方が、強く印象に残ったりしますから。今日のお話を何か一つのヒントにして頂き、皆様のお仕事の中でお役立て頂ければ幸いです。
インサイト No.45
2016年3月15日