今、何故この時代に相田みつをが受け入れられるのか

 平成20年12月10日(水)ヒューマンキャピタル勉強会を開催いたしました。当日の講師は相田みつをのご子息で、東京国際フォーラムにあります相田みつを美術館 館長 相田一人氏でした。
 相田みつをの書は固定ファンがおり、多くの美術館が入場者数で苦戦する中、連日来館者が絶えません。もちろん「書」の魅力もありますが、仕掛け人としての相田館長のお力があればこそと感じました。当日の模様をご報告します。

相田みつを美術館館長 相田一人氏 講演

■ 講 演

はじめに

 みなさん、こんにちは。相田みつを美術館の館長の相田一人(あいだかずひと)と申します。本日、ご縁を頂きましてこれから一時間ちょっとの短い時間ですが、父、「相田みつを」の話ですとか、私の話をお聞き頂いた後にお時間がある方は美術館の方をお訪ね下さると思いますので、美術館の事などについてもお話をさせて頂きたいと思います。
 私は相田みつをの長男なんです。紛れもない息子なのですが、先日俳優の江守徹さんが取材で美術館にいらした際に私がアテンドしたのですが、私の髪型のせいでしょうか「弟さん」と何度もお呼びになるんです。その度、息子ですと何度も申し上げましたが、最後も弟さんで終わりました。しかたなく今は弟と言われてますが、あと10年もすると「相田みつをのお兄さん」と呼ばれるんじゃないかと心配しております。(笑)
 今からお話させて頂くのはあくまでも「息子の目から見た相田みつを像です。」とお断りさせて頂きます。今日の表題は「今、なぜ相田みつをが受け入れられるのか」ですが、こんな大それた表題を付けた手前、これに沿う様な構成を色々と考えました。そこで「いのちの根」という父の詩を最初に見て頂きます。その後に色々なお話をさせて頂き、色々な作品を見て頂きます。最後にもう一度この「いのちの根」という同じ作品を見て頂きます。最初と最後に同じ作品を見て頂きますが、最初の印象と最後の印象は違ってくると思います。その事を期待してお話を始めさせて頂きます。

作品:「いのちの根」から

 まず、個人的なお話になってしまいますが、平成20年の8月6日お昼に何があったか皆さん覚えていらっしゃいますか?秋葉原で無差別殺人事件がございました。実は私もその時間に秋葉原に行く予定でした。たまたま急な来客がありまして秋葉原に行けなかったのですが、行っていたら事件に遭遇、巻き込まれていた可能性が非常に高かったと思います。ヒヤッとしたと同時に非常に怖かったです。事件の青年は「誰でも良かった。」と話していたようですが、誰でも良かったで、被害にあったら本当に浮かばれません。これが今の日本の現実なんだろうなと思いました。
 その非常にショックを受けた翌日に長野県のあるテレビ局から一本のビデオテープが届きました。それはある刑務所のドキュメンタリーが収められておりました。日本には刑務所が沢山ありますが、色々な理由で服役している人がいます。そうした人の中には実は義務教育を終えていない方が沢山いらっしゃるそうです。日本は義務教育を終えないといけない事になっていますが、現実問題としては中学校を出ないで世の中に出て、そこで犯罪を犯して刑務所に入ってしまう方が非常に多いってことなんですね。そういう服役者の中で勉学の意欲があると認められた人の為に、長野県の松本市という所にある刑務所の中には「塀の中の中学校」という受刑者の為の中学校があります。その一年間の様子を収めたドキュメンタリーの中にこの作品「いのちの根」が出てきていたんです。「作品を使いました」という事でテレビ局が送ってくれました。非常に丹念に作ってあるドキュメンタリーで感心を致しました。
 全国の刑務所から13人が集まりまして中学校の勉強の3年間分を1年間で学ぶハードなカリキュラムですが、必死に学ぶんです。その授業で父の作品、この「いのちの根」を毎回朗読するわけです。この作品は相田みつを作品の中で、それ程ポピュラーではないです。ただ息子としての立場からですが、この作品は父の作品の中で非常に重要な作品だと思います。なぜかと言うとこの題名ですけれども「いのち」という言葉と「根」という言葉を一つにして「いのちの根」という言葉を使っております。これは父、相田みつをが初めて使った言葉なわけではないのですが、父の全作品を貫くキーワードがこれだと私は思っております。ですので、この作品は父の重要作、代表作だと思っております。
 この「いのちの根」という作品の中に「耐える」という言葉が何回も出てきます。「耐える」「耐える」と。今の世の中この「耐える」が非常に流行らなくなりましたよね。死語になったとは言いませんが現実生活の中で「耐える」を使うことは非常に少なくなった様に思います。この平仮名三文字、漢字でも良いですがこれに代わって同じく三文字のある文字が幅を利かせていると言いますか、取って代わってきています。どういう言葉か?「キレル」(切れる)ですね。ここに現代社会の大きな問題が隠れているんじゃないかと思います。「たえる」から「キレル」に。耐えられなくて切れてしまうんですね。

著書:「人間だもの」から

 私の父は1924年、大正13年に生まれました。大正13年は昭和の年齢に一歳足した年齢ですからほぼ昭和と共に歩んだ世代です。という事は父には戦争体験があります。戦争に行って辛うじて生きて帰って来られた体験が父にはあります。いわゆる戦中派に入ります。父、みつをは6人兄弟の三男で、長男、次男は戦死しております。10代後半に父は兄弟と非常に仲が良かったようです。ただ兄弟、兄二人を亡くしております。この事が父の原点になっております。若い頃から父は書家・詩人として独特な世界を築きました。父は肩書きを付けると「書家」・「詩人」と二つが付くのですが、言い換えるとですね「自分で詩を作って自分で筆を取って書にする」つまり「自作自演」というスタイルです。これは音楽の世界で言うと、ずばり「シンガーソングライター」です。自分で作詞作曲して、歌うのです。父も全く同じです。若い頃からこういう作品を書いていたんですが、今の時代でこそ「相田みつを」を知らない方よりもご存知の方の方が多くなったと言っていいと思うのですが、そうなったのは非常に近年の事です。父が育ったのは栃木県の足利市という所で、生涯そこで過ごしました。自分の展覧会を開いてはそこで作品を発表していたんです。地元の方はこういう作品を見て「相田みつをっていうユニークな人が居るなぁ。」と、知ってはいたと思うのですが、一般的にはほとんど無名だったと思います。その父が世の中に知られるようになったのは、きっかけがございまして「人間だもの」という本ですね。父が生涯で一番初めに出版した本です。それまでは本なんて一冊もありませんから、知ろうと思っても知る手立てもなかったわけです。ところがこの本が出たことで少しづつですね、父の事が知られるようになったのです。問題は何歳の時に出したかという事ですが、満60歳です。非常に遅いんですね。いつ亡くなったかと言うと昭和が終わって平成3年。1991年に亡くなっています。67歳です。脳内出血であっけない亡くなり方でした。60歳でこの本が出て、身内からすると「ようやく、この本のおかげで父の仕事が知られるようになるかなぁ。」と言うくらいです。ですから亡くなった後の方がはるかによく知られる様になった存在と言っていいと思います。

作品:「具体的に動くと具体的な答えが出るよ」から

 相田みつをが何故受け入れられるのか?についてですが、「癒やしの時代と相田みつを」と表題に致しましたし、よく「相田みつを」を読むと「癒やされる」とおっしゃる方が多いですね。また「癒やしの書家:相田みつを」なんて言い方をよくされますが、私はそれに非常に抵抗がございます。父の作品を読んで「癒やされた」という方はいらっしゃると思いますが、所謂安易な癒やしのような言葉って一つも無いんです。「具体的に動くと具体的な答えが出るよ」という作品ですが、これはある意味物凄く突っ放した言い方、人によっては冷たい言い方ですね。父の書いているものってこういう物なんです。つまり父自身は、見る人を「和ませよう」「癒やそう」という気持ちで作品を書いた事は無いはずですし、そういう気持ちで作った作品なんてどうしようもない作品に決まってますから。父の作品は全部自分に向けての物なんですね。例えば怪我をして擦り剥いた時の直し方は大きく2つあります。消毒をして薬を塗って包帯を巻いてというやり方と、もう一つはきれいな水でじゃぶじゃぶ洗って、そのままお日様にさらして自然に治す。父の作品は、後者の感覚です。当たり前の事しか書いていないですが、当たり前の事って意外と分からない事なんですね。それが結果的に見る人の心を癒やす効果はあると思います。ですから作品を見ている人は最初のうちは相田みつをと対話をしているんですが、段々とその言葉の余白の部分に自分の顔を映していく様になるんだと思います。結局作品を通して自分と対話する様になるんだと思います。自分と対話をする様になると、その時の自分の気持ちってはっきり見えるんだと思います。その事によって落ち着くとか癒やされる感じになるのではないでしょうか。ですので「癒やし系:相田みつを」ってレッテルを私は剥がして行きたいですね。

作品:「ひとりしずか」から

 父は書家ですから「書」というのは余白の美学とも言います。父は作品を書いた後、余白を自分でトリミングしていたんですね。余白は全部自分で計算していました。目に見える余白だけでなく、言葉の余白も父は非常に大切にしていたんですね。言葉の余白に見る人の心が映る様な作品の書き方をしたんだろうと思います。よく「素朴」とか「作為が無い」とか言われますが、そうではなくて非常に知的な計算によって書かれていると言っていいと思います。バランスもこれ以上文字の位置を動かせないように究極のバランスになっていると思います。一見素朴ですが実は全然違うんですね。

 

作品:「美しいものを美しいと思える あなたの心が美しい」から

 「相田みつを美術館」は今年で12年目になります。最初は銀座でスタートをしました。
 沢山の作品の中で皆さんの記憶に留めておいて頂きたい作品がもう一つあります。
父は書家、詩家の他に歌人としての顔もございました。父は詩を書くようになったのは30歳過ぎなんですが、10代から短歌をずっと亡くなるまで作っていました。「5・7・5・7・7」の中に余分なものを削って作品を作る。リズム感も大切です。短歌を作ってきたからこそ出来たのがこの「美しいものを美しいと思えるあなたの心が美しい」という作品だと思います。この言葉は短いですが、素直に感動できる心が、美しい心なんだと言っておりました。悪い事、間違えている事がぱっと分かる心だと。それは戦争や犯罪、いじめです。「これはいけない」「これは間違っている」と直ぐに思えること。子供の為にやらなくてはならない事は沢山あるけれども、その中で一番大切だと思っている事は「子供が小さいうちに、心の中に美しいものを見て、素直に感動する心を養っていく事これが親の大事な努めなんだよ。」とよく言っていました。ではどうやったら子供の心の中に感動の心が芽生えるかという事ですが。父の答えは物凄く明確でして「まず親が感動しなくては駄目だよ」という考えです。親の感動は必ず子供の心に伝わっていって、感動する心が芽生えるわけです。

作品:「一生勉強 一生青春」から

 最後に、父に対する誤解の中でどうしても私が解いておきたい事がございますので、お話させて頂きます。父の書体ですね。よく言われる「上手いのだか、下手なのだか、分からない。」というお話なのですが、父は17歳で旧制中学に居た頃から本格的な書を始めます。当時、栃木県で第一人者と言われていた書家に入門して17歳から始めています。22歳の父の字は、全国で1位になっております。22歳で全国1位は、当時ではかなり若い方です。それから27歳の時に如何にも書家風の字で入選をしております。将来有望の新進書家と言われていたようです。綺麗な楷書も勿論書けるわけです。草書までも綺麗に書けます。ただ、綺麗なだけでは人を感動させられない事から、自分の作品に合った書体に行き着いたわけです。ですから一朝一夕に作品の書体が出来上がった訳ではないんです。「一生勉強 一生青春」という言葉、作品を残しておりますが、父は正に「一生勉強 一生青春」で終わった67歳という比較的若い一生でした。

インサイト No.19
2009年3月3日

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